笑ってよりとも

 この冬の18きっぷ旅、後半戦は関東に行って来た。最近注目するようになった杉山城、前々から気にはしていたがなかなか訪問の機会がなかった岩槻城、忍城。横浜に泊まり、鎌倉に立ち寄るに一泊二日の旅である。もっとも、名古屋を発ったのは金曜日の深夜、日付も変わろうかと言う24時直前のことだった。いつもどおり「一泊三日」表記にしようか悩ましいところだが、足掛け三日と言うにはちょっと足りない気がする。東京行きの夜行バス・ドリーム名古屋号に本山バス停から乗り込み、私の旅は始まった。

画像■杉山城
 最初に向かったのが、埼玉県は比企郡嵐山町にある杉山城跡である。当初の計画では滝山城の攻略も考えていたのだが、冬の日の四城攻略は厳しかったため、これをパスして杉山城攻略から着手することにしたものだ。
 城の来歴は、詳しいことがほとんど分かっていない。歴史的にはほとんど無名の城である。ただ、関東の戦国城郭遺構としては規模・保存状態とも出色の物を誇っている。あまり名前を聞かないだけに、現地を訪ねるまで、その下馬評については懐疑的だったのだが、いやはや大したものである。堀切が縦横にめぐらされ、土塁によって仕切られた曲輪の配置はかなり複雑だ。並みの山城と言うのはそんな物なのかもしれないが、その様が手に取るようにわかるところこそが、杉山城の真骨頂と言える。
 その出自について論争が巻き起こるなど、最近になって特に注目され出したためか、周辺にも仰々しい施設案内標識の類は立っておらず(一方で現地にはリーフレットが置いてある)、場所も若干分かりにくいが、玉ノ岡中学の裏山のような場所である。一応マックスマップルには名前が表示されていたので、東武東上線武蔵嵐山駅から歩いたが、そこそこ距離があること、さらには最近の負け癖が相まって、途中で幾度か諦めムードに支配されかかった。無事たどり着けて良かった思える、大収穫である。

画像■岩槻城
 満足度の高かった杉山城とは対照的に、微妙だったのが岩槻城だ。岩槻城の名はそこそこ売れており、ゆえに以前から訪問の機会をうかがっていたのだが、現在ほとんど遺構らしき物が残っていない。「岩槻城址公園」と言うのもあるが、限りなく、城址に名を借りた普通の都市公園に近い。一応、かつて城内にあったとされる黒門が、公園内に保存されてはいるが、それ以外では土塁と堀の痕跡が辛うじて往時の姿を留めているに過ぎず、あまり城跡らしくない。
 ちなみに、公園の近くには本丸と言う地名があり、こちらがその名の通り昔の城の中枢だったのだろうが、現在はすっかり都市化されている。正直、岩槻城の代わりに滝山城に行っとけば良かったかなと、思わなくもない。

画像■忍城
 最後に立ち寄ったのが、行田市にある忍城だ。これも水城だの、浮城だのと言われ歴史に名高い城である。それに加え、一応模擬復元の建物があると聞いていたから、本来ならもっと早く行っていても良い物件ではあるのだが、ずいぶん後回しになってしまった。岩槻城もそうだが、JR路線を基軸にしたアクセスが難しく、私鉄をちょいちょいと乗り換えなければいけなくなるため、18きっぷ旅との相性が余り良くなかったのだ。
 さて、忍城は石田三成による水攻めで有名である。と言うか、最近では「のぼうの城」といった方が通りが良いのか。豊臣秀吉による小田原攻めの際の城将・成田長親がでくのぼうの「のぼう様」と呼ばれたというのが、何かしらの資料に基づいているのか、原作者の創作なのかは寡聞にして知らないが、三成が大軍をもってしてもこの城を落とせなかったことは事実であり、今に至るまで三成の将器に疑問符が付いている原因となったことは否めない。
 現地に到着した直後は、おもてなし武将との記念撮影会の真っ最中であった。ただ私は、原作小説も読んでなければ映画も見ていないので、成田氏の関係者と言えば甲斐姫ぐらいしか知らない。「誰が誰だかわからないなあ」と、それを横目に見ながらの城内見学となった。
 いかんせん、ここも地味な城である。城跡の一画には資料館が建てられている。再建された御三階櫓は、この資料館の一部で、見た目完全に近代建築である資料館と棟続きになっている。残念ながら、城の故地は、市の公共施設を作るのに好都合な土地だったようで、資料館が出来る前には野球場だの何だのが作られており、これの工事の際に戦国時代の地層面まで根こそぎ掘り返してしまったため、もはや何の考古資料も残されていない状態なのだそうだ。従って、城としてのパンチにはどうしても欠ける恨みがある。浮城とまで言われた沼地の城であるが、現在の城跡周辺はすっかり普通の地方都市となっており、沼地の面影すら残されていない。近くにあるその名も水城公園周辺には、辛うじて大きな水場が残っており、そこが唯一昔の雰囲気をとどめているのかもしれないが、水城公園は忍城そのものとは大して関係がないようである。不思議と岩槻城とだぶる、忍城の現況なのであった。
 なお、史跡としては水攻めを目論んだ三成の築いた石田堤の方がそれらしいのだが、現存している場所まで、忍城からはかなり距離がある。事前にバスなどの乗り継ぎを調べていたのならともかく、とても歩いていけるような場所ではなかった。

 夜は、横浜に泊まる。先にも少し触れたとおり、JRはもとより、色々な私鉄をせわしなく乗り継ぎ、意外に疲れた一日だったが、全ての予定を消化した後は、熊谷駅から横浜駅まで、同じ列車に乗りっぱなしだった。普段の18きっぷ旅は大抵この状態になるのだが、これがいかに楽チンなのか、今回再認識した次第である。

 さて、横浜と言う街は、その所在地の微妙なこともあって、泊まったこともなければまともに歩いたこともなかったので、今回は横浜とのファーストコンタクトを求めて、あえてここに宿を求めることにした。最初は、横浜駅前が一番繁華で、ホテルやサウナなんかもこのエリアに集中しているのかと思ったのだが、ホテル検索をすると「関内」と言うところの方が宿を見つけやすかった。どうやら横浜の都心と言えるのが関内エリアであるのと同時に、横浜駅周辺は東京方面へのアクセスの容易さもあって、ランク上のホテルが立地していると言うことのようだった。ちなみに、新横浜駅周辺は、最近でこそ開発が進んできたが、どちらかと言えば田舎になる。そんなこんなで、今回は関内のアパホテルに泊まることにした。素泊まり四千円プランである。関内は、中華街やみなとみらいなんかにも近接しているエリアだ。

 横浜の夜、夕飯を求めて中華街に飛び込む。先だっての神戸の南京町の件が脳裏を横切るが、いやな予感は的中し、横浜の中華街でもまた、やさぐれ中年の一人客が気楽に飛び込めるような店が見当たらない。実質通り一本の中華街だった南京町よりははるかに規模が大きいのだが、それでも適当な店が見つからない。親しみやすさで言えば、南京町のほうが好都合だったほどだ。中華街では、飯のほか関帝廟にも行っておきたかったのだが、暗くなって方向感覚が掴みにくくなっていることもあり、これも見つからなかった。

 さりとて、胃袋はすっかり中華料理の受け入れ態勢が出来ていたため、ついに「これは王将しかあるまい」と意を決する。スマホで調べて桜木町駅前に系列店があるとわかり、足を運んだのだが、なぜかここが王将のくせに店の前まで行列が出来るほどの状態。とても待つ気にはなれなかったので、関内駅前まで戻って、ホテルの近くにあった吉野家で夕食となった。まあ、終わってみればこれはこれでいつもの旅行と大差がない。ただ、牛丼をかっ込みながら、お土産には崎陽軒のシウマイを買って帰ろうと言う風にだけは思った。

画像 明けて日曜。朝一番で中華街を再訪し、関帝廟と媽祖廟を見学。関帝廟に祭られているのは、ご存知三国志の英雄・関羽であり、媽祖廟の神様・媽祖は、マカオで見てきた媽閣廟(マーコーミュウ)の阿媽と同一神格だ。いずれも開門前だったため、通りから見るだけだったが、これで横浜にやってきた目的の何割かは果たした気分である。今日はこれから、鎌倉に向かう。

 鎌倉には、今を遡ること20年ほど前、中学校の修学旅行で訪れている。その時に行ったのは、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、銭洗弁天と言ったところだったと思う。今回も、その時とほぼ同じコースを辿ろうかと思っていたが、結局銭洗弁天はパスすることになった。北鎌倉駅で横須賀線を下り、鎌倉駅まで歩くプランを柱に考えていたのだが、昨日からの連戦で思ったより疲れてしまった。銭洗弁天は、鎌倉駅のさらに先に、ハイキングコース途上のポイントとして存在していた。

■円覚寺
 北鎌倉の駅前にあるのが、北条時宗の菩提寺・円覚寺である。北鎌倉駅は、以前、「坂の上の雲」に乗せられて横須賀へ戦艦三笠を見に行った際通っているはずの駅ではあるが、本当に小ぢんまりとした駅で、本当にこんなところに鎌倉有数の観光地があるのかと不審に思ったほどだ。
 境内は広く、仏殿や方丈、庭園、洪鐘など見所は色々あり、そのうちのいくつかは国宝だ。名刹古刹とするにも何のためらいもいらないが、中学生が修学旅行で立ち寄らないだけのことはあり、渋めのお寺である。ガイド本のかなり目に付くところに紹介されていたため立ち寄ってみたが、もう一つ琴線に触れるものがなかった。

■鶴岡八幡宮
 日本の神社は、祭神によって神明社だの稲荷社だのと系統立てられているが、一説にその中で最も数が多いのが八幡社なのだという。八幡神は武門の神として知られ、その棟梁たる源氏が氏神として篤く崇敬したのも、理の必然だったのかもしれない。鶴岡八幡宮は、源頼朝によって現在の地に造営された。
 時期的なものもあり、多くの初詣客で賑わっていたが、ゆえに出雲大社や熊野本宮の時に感じたような、幽玄の神気のようなものは感じにくい。伊勢神宮ほど広大なわけでもないため、意外に普通である。隣接して建てられた鎌倉国宝館の展示には興味を引かれたが、こちらの展示物は仏像中心だ。やはり私にとって、仏教寺院のほうがなじみ易いのかもしれない。
画像 神社の近くには、源頼朝の墓がある。墓自体は大分時代が下ってから島津氏によって建てられた物だという。ただ、鎌倉幕府の政庁は、墓所から近い雪ノ下近傍にあったのだそうだ。今では何の遺跡も残っていない。それを思えば、御所跡でも何でも、とにかく何かしらモニュメントとなる物がある京都はえらい物だと思う。

画像■鎌倉大仏
 最後は鎌倉の大仏である。鎌倉駅から江ノ電に乗り換え、長谷駅で下車。10分ほど歩いてたどり着いた。くだんの修学旅行のとき印象に残ったのが、門前にあったRPGに出てきそうな武器を売っているお土産屋だったのだが、これは健在であった。ちなみに大仏があるのは高徳院と言うお寺だ。
 鎌倉の大仏は、もともと為政者によって建立された物ではなく、民衆から募ったお金で作られたものだったのだそうだ。今では露座になっているが、建立当時は大仏殿があった。さらに、金箔押しの黄金大仏だったとも言う。現在も大仏の右頬には少しだけ金色が残っている。
 高徳院の境内には、ほとんど大仏しかないと言って良い。そんなに見るところも多くなく、強いて言うならお戒壇めぐりをしていくぐらいしかなかったのだが、意外に人が入っているらしく、入場制限がかかっていたため、これも諦めることになった。

 世界遺産登録に向け、鼻息も荒い鎌倉ではあったが、どのような遺産として後世に伝えて行こうとしているのだろう。興味を引かれるところだ。自分の脚でその一角を歩いてみて、社寺の風格で言えば京都・奈良に引けをとっているようには感じたが、切り通しの道に代表される、街そのものを城塞化したような、いかにも武人階級が作り上げた街としての側面が、鎌倉の妙味なのではあるまいか。

 高徳院を引き上げ、江ノ電に乗り込む。鎌倉駅へ戻るのではなく、藤沢側まで走りぬけた。沿線が、かの有名な湘南なのだと思うが、あまり感心のあるエリアではないため、どうもピンと来ない。呆けたように窓の外を眺めながら藤沢駅に着いた後は、東海道線に乗り換え、名古屋までおよそ5時間の道のりを引き返した。

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